日常の発見

七夕の短冊は大人にこそ効く。願い事を書かなくなった僕らへ

7月、駅前の商店街に笹が立った。子どもたちの短冊がぶら下がっていて、通りすがりに読むともなしに読んだら、足が止まった。

「マイクラがうまくなりたい」「プールで25めーとるおよぐ」。ええやん、と思った。そして気づいた。僕は何年、願い事を書いていないんやろうか。今日は七夕と短冊の話を書く。

短冊の前で止まった日

その笹には、たぶん近所の保育園や小学生の短冊が飾られていた。字はガタガタで、ひらがなは所々鏡文字。でも内容は全部、具体的で堂々としていた。

「けーきやさんになる」「ぱぱとサッカーする」。誰に笑われるとか、実現できるかとか、微塵も考えていない願いが風に揺れている。仕事帰りの疲れた大人には、ちょっと眩しい光景やった。

その場でしばらく読みふけって、一つの疑問が湧いた。大人はいつから願い事を書かなくなるんやろう。

願い事を書かなくなる理由

思い返すと、僕が最後に短冊を書いたのは小学生の頃だ。やめた理由は覚えていないが、想像はつく。恥ずかしくなったのだ。

大人になるにつれて、願いを口にすることには「実現できなかったら格好悪い」というリスクが付いてくる。だから僕らは願いを言わなくなり、そのうち願いを言葉にすること自体をやめてしまう。

でもこれ、冷静に考えると変な話だ。願いを言葉にしなくなったからといって、願いが消えるわけやない。ただ、ぼんやりしたまま頭の中に沈んでいくだけである。

短冊は最小の目標設定ツールだった

エンジニア的な目で見ると、短冊はよくできた装置だ。「書く」「掲げる」「人目に晒す」の3ステップが、そのまま目標設定の王道になっている。

書くことで、ぼんやりした願いが一行に絞られる。掲げることで、自分への宣言になる。人目に晒すことで、ちょっとした約束の力が働く。自己啓発書が数百ページかけて説く内容を、七夕は短冊一枚でやらせてくる。

儀式にはだいたい機能が隠れている、という話は乾杯の意味を考えた記事でも書いた。七夕もまた、願いの言語化を年に一度強制する、よくできた文化装置なのだ。

公言してみて分かった効果

実は僕は、短冊ではないが似たことを実践している。「毎日パーティするのが野望」と、会う人会う人に公言しているのだ。

最初は笑われる。でも不思議なもので、言い続けていると応援団が増えていく。「そういえば面白い物件あったで」「この人紹介したろか」と、野望のほうに情報が集まってくるようになった。ぼんやり心に秘めていた頃には、絶対に起きなかったことだ。

願いは、言葉にして外に出した瞬間から他人が関われるものになる。短冊のあの子たちは、それを無意識にやっている。眩しいはずである。

大人の短冊に書くべきこと

もし今夜、短冊を渡されたら何と書くか。コツは、子どもたちに倣うことやと思う。

つまり、実現可能性の審査を入れないこと。「英語を少し頑張る」みたいな謙虚で曖昧な願いではなく、「けーきやさんになる」レベルの、具体的で身の程知らずなやつを書く。願いの段階で身の丈に合わせる必要は、まったくない。

僕なら迷わずこう書く。「まいにちパーティする」。ひらがなで書けば、あの笹に混ざっても違和感ないはずだ。

まとめ

要点は3つ。

  • 大人が願い事を書かなくなるのは、願いが消えたからではなく、恥ずかしくなったから
  • 短冊は「書く・掲げる・晒す」が揃った、最小で最強の目標設定ツール
  • 願いは言葉にして外に出した瞬間、他人が関われるものになる

七夕の夜、星に願うかどうかは自由だ。ただ、願いを一行の言葉にする機会としては、年に一度の大チャンスやと思う。今夜、あなたなら短冊に何と書きますか。

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